『利他・ケア・傷の倫理学 「私」を生き直すための哲学 (犀の教室 Liberal Arts Lab)』
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「訂正可能性の哲学」がケアの哲学だったことを、本書を読んで知った。
ケアとは、あらゆる関係のたえざる訂正のことなのだ。
──東浩紀
人と出会い直し、つながりを結び直すために。
「大切にしているもの」をめぐる哲学論考。
「僕たちは、ケア抜きには生きていけなくなった種である」
多様性の時代となり、大切にしているものが一人ひとりズレる社会で、善意を空転させることもなく、人を傷つけることもなく、生きていくにはどうしたらいいのか? 人と出会い直し、歩み直し、関係を結び直すための、利他とは何か、ケアの本質とは何かについての哲学的考察。
進化生物学、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」、スラヴォイ・ジジェクの哲学、宇沢弘文の社会的費用論、さらには遠藤周作、深沢七郎、サン=テグジュペリ、村上春樹などの文学作品をもとに考察する、書きおろしケア論。『楢山節考』はセルフケアの物語だった!
「大切なものはどこにあるのか? と問えば、その人の心の中あるいは記憶の中という、外部の人間からはアクセスできない「箱」の中に入っている、というのが僕らの常識的描像と言えるでしょう。/ですが、これは本当なのでしょうか?/むしろ、僕らが素朴に抱いている「心という描像」あるいは「心のイメージ」のほうが間違っているという可能性は?/この本では哲学者ウィトゲンシュタインが提示した議論、比喩、アナロジーを援用してその方向性を語っていきます。」(まえがきより)
【目次】
まえがき──独りよがりな善意の空回りという問題
第1章 多様性の時代におけるケアの必然性
第2章 利他とケア
第3章 不合理であるからこそ信じる
第4章 心は隠されている?
第5章 大切なものは「箱の中」には入っていない
第6章 言語ゲームと「だったことになる」という形式
第7章 利他とは、相手を変えようとするのではなく、自分が変わること
第8章 有機体と、傷という運命
終章 新しい劇の始まりを待つ、祈る
あとがき
「第1章 多様性の時代におけるケアの必然性」。進化論的観点から現代の生きづらさが提起され、さらにそこから一歩離れて文化的社会にある多様性がもたらす利他の難しさが確認される。多様性とは、生の文脈の複数性であり、その文脈は「物語」として把握される。
物語=関係性は直接見ることができず、語りとして提示されるだけ。エビデンシャリズムはこの語りを見逃し続けるだろう。ともあれ、それぞれの人が大切にしているものは目に見えることはできず、だから僕らの善意は空回りしやすい。
第二章「利他とケア」。『自動車の社会的費用』を通して利他とケアの関係が整理され、さらに『沈黙』における道徳から倫理への変容(というより跳躍)が確認される。コードからの逸脱としての倫理が、だからこそ「自由」を構成しうる。
第三章「不合理であるからこそ信じる」。利他は葛藤を含む。すなわち「にもかかわらず」行われる。それは合理性の物差しからは外れた行為であり、だからこそ(安心ではなく)信頼が築かれる。
第四章「心は隠されている?」。目の前の人が、想定している言語ゲームから外れてしまったとき、私たちは「心がわからない」という。ゲームが通常に進行しているときは、そもそも「心」に言及しようとすらしない。
一つの文の意味がそれだけでは決定不可能なように、相手の立ち振る舞いや言動も、ピンポイントで取り出しては捉えることができない。全体を、つまりは文脈や物語を含めて捉える必要がある。
第五章「大切なものは「箱の中」には入っていない」。ゲームとペナルティの分析からスタートし、その後僕らはすれ違うことがあるにせよ、言語ゲームを続ける中で訂正される可能性が示される。だからこそ続けることそのものが大切であり、逆説的にそのゲームからの排除がペナルティになりうる。
第六章「言語ゲームと「だったことになる」という形式」。継続していく言語ゲームにおいていまだ踏み固められていない出来事に遭遇することがある。それがケアを必要とするタイミングであり、踏み固められたものからの逸脱/跳躍が要請される。その跳躍は、ゲームそのものを変容させ物語を書き換える。
もし、何かを希望と呼ぶならばそうした物語の変容可能性こそが相応しいだろう。
第七章「利他とは、相手を変えようとするのではなく、自分が変わること」。ほぼ章題でいいつくされている。ちなみに、殺せんせーがにゅるにゅるの軟体なのは、まさに生徒に合わせて自らを変えていけることの象徴だろう(実際生徒に合わせて問題を作ったりもしていて、それは反管理的教育とも言える)。
第八章「有機体と、傷という運命」。複雑化しすぎ文明もまたケアを必要していること。そして、他者の傷をケアすることによって、利他が生まれ、その利他が自らの物語を書き換えていくこと。セルフケアとしての利他。その利他は意図と合理性の外側にある。そうであるからこそ、語り直しを導ける。
終章「新しい劇の始まりを待つ、祈る」。その時点で自分が属している言語ゲームがあるにしても、それが合わないのであればゲームを移ることができる。あるいは、新しくつくりだしていくことも。人の創造性とは、そうしたものを指すのであろう。